経歴

経歴のページをご覧いただきありがとうございます。

私が中小企業診断士として独立するに至った経緯を書こうと思ったところ、実はその経緯は幼年期まで遡る気がしました。自分の半生を書き留めておくためにも、現在の診断士の活動と、過去の様々な原体験をまとめておこうと思います。

ここは経歴のページですが、中身は少しひねくれたおじさんの栄光と挫折の私小説です。毎日少しずつ更新してますので、完成まで今しばらくお待ち下さい。

現在のところ、全部で13,000文字程度ありますので、通読していただくには20分程度のお時間をいただくことになります。忙しい方は独立してからを御覧ください。

ジャンプできる目次

小学校時代

チョーさんは中小企業診断士?

佐賀県伊万里市出身。
控えめに言っても、小学生の頃は勉強もスポーツもできて、授業中は退屈でいつも外を眺めている生徒でした。今思えば、学校の先生からはとても扱いにくい存在だったことでしょう。授業中ぼーっとしていて無気力そうでも、テストではいい点を取ってしまうわけですから、自分が先生だったらこんな生徒は放置しておこうと思います。

授業が退屈すぎたので、仮病で学校を休んでは教育テレビ(現在のEテレ)を見たり、兄の教科書を読んだりしてました。そうすると、上の学年の勉強も理解してしまって、更に授業がつまらなくなるという悪循環に。

当時、好きだった教育テレビは「たんけんぼくのまち」。店員として働いている「チョーさん」が、自分たちが暮らす市町村について調べ、手描きのイラスト地図にまとめて発表する、小学校3年生向けの社会科番組です。

NHKアーカイブス たんけんぼくのまち
https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009020019_00000
手描きで作るたんけん地図
https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=C0010701


現在、中小企業診断士として経営者の話に耳を傾け、外部環境を調査して、プレゼン資料や報告書にまとめて経営者にお伝えしていますが、その原点がこの「たんけんぼくのまち」にあるような気がしています。

結論:「たんけんぼくのまち」のチョーさんは、ある意味中小企業診断士である。

商店街調査で初めて資料作成

小学3年生の頃の話。

当時はデパートやスーパーマーケットの出店が一段落していて、商店街との競争も一段落していた頃だと思います。大型のライバル店が現れることで否応なく競争にさらされ、商店街の結束力は強くなっていました(たぶん)。お祭りやイベント等で顧客との関係性を維持し、商店街が地域コミュニティの中心であり続けようとしていた時代です。

たんけんぼくのまちが好きだった私は、夏休みの自由研究で、この地元の商店街を調査することにしました。商店街の入り口から出口まで歩きながら、どこにどんな業種のお店があるのかをメモ。家に帰って、そのメモを見ながら、大きな模造紙に「ぼくのまち」の地図を描く。飲食店、衣服店、雑貨店などに分類して棒グラフなどを作成する(ここは母親に手伝ってもらいました)。

そうして出来上がった調査結果の「ぼくのまち」は、模造紙3枚で教室の黒板くらいの大きさの大作になりました。調査するのも資料を作るのも、どちらもとても楽しい経験でした。今も中小企業診断士で調査したり資料を作ったりする時には、この小学3年生の調査をたまに思い出します。

カブスカウトで学んだギバーの精神

さてそんな私でも、友達受けの方はそこまでは悪くなかったようで。小学校でカブスカウト(ボーイスカウトの下部組織)に入ったら、友達も何人か一緒に入ってくれて、とても楽しかった記憶があります。キャンプ、山登り、サイクリング、クリスマス会など、指導者や団委員の方にはとてもお世話になりました。

カブスカウトでキャンプに行く時

子供の頃は、カブスカウトの指導者や団委員はアルバイトでやっていると思っていました。大人になって、実はボランティアで活動していたことを知って、とても衝撃を受けた記憶があります。貴重な休みを使って、無償で子供たちの成長の支援をする。そのギバーの精神や志の崇高さを思うと、自分の身が引き締まる気がします。

現在、中小企業診断士で活動していますが、経営者や同業者に対しては、自分の知識や経験やノウハウは出し惜しみなく提供するようにしています。また、無償の相談窓口や研究調査などのプロボノ(専門家が社会貢献のために無償で提供するサービス)に関しても積極的に参加するようにしています。このギバーの精神はカブスカウトが原体験になっていると思います。

中学校時代

課題=現実と理想のギャップ

小学校で少なからず天狗になっていた私も、私立の中学校に入ってしまえば普通の生徒になりました。

当時の弘学館中学校は開校して間もないこともあり、県内外から優秀な生徒が集まっていました。諺に「十で神童 十五で才子 二十過ぎれば只の人」とありますが、この例にもれず、私も12を過ぎて優秀な生徒の中に入ると、只の人になったわけです。

それでも神童だった頃のプライドだけは高くて。ちょうど博学才穎だった山月記の李徴のように、神童であるべき理想と、只の人である現実の間で苦み続けることになりました。

現在は経営支援の一環として、経営者の話を聞き、企業のあるべき姿と現在の状況を確認して、そのギャップを埋めるための課題を設定したりしています。この理想と現実のギャップを認識する思考のクセみたいなものは、中学校時代に遡るのかもしれません。

中小企業診断士が作りがちな図

意識高い早朝学習

この理想と現実のギャップを埋めるために出した解決策は、勉強時間を増やすことでした。しかしながら、全寮制で規則正しい生活をしていたので、勉強時間は限りがありました。学校が終わって部活をやって夕食とお風呂を済ませると、消灯までの約2時間が勉強時間に充てられます。

定期試験の2週間前には、朝6:00〜6:50の早朝学習が許可されていたので、意識高い生徒は早起きしてテスト勉強をしていました。でも中学生くらいって、たぶん今でも、全然勉強してないのにテストで良い点を取ることに憧れがあるじゃないですか。だから、更に意識の高い生徒は、4時くらいに起きて、こっそり寮部屋から学習室に移動して、90分くらい勉強して、何事もなかったように部屋に戻ってましたね。

早朝学習のイメージ(Copilotで生成)

私はといえば、その更に上を行く意識の高さで、深夜2時くらいに起きて朝の4時頃に部屋に戻ってました。4時起きの生徒よりもさらに2時間早く行動することで、意識高い生徒にすらその存在を気付かれない。今思えば本当に無駄な努力です。

もちろんそんな無茶をすることで、日中の授業に集中することができなくなって、成績は下る一方だったのですが(笑)。一度決めたら何かに取り憑かれたように取り組むのは、この頃から変わっていないように思います。

高校時代

現実から走って逃げる陸上部

高校に入ってからは、良くも悪くも「上の中」くらいの成績で安定してしまって、自分の限界や現実を思い知らされました。いくら早朝学習しても、土日もどこにも遊びに行かずに勉強しても、成績は上がりもせず下がりもしない。山月記の李徴は自分の才能に絶望して虎になりましたが。自分は虎になる代わりに陸上部に打ち込んだような気がします。

たぶん九州大会の400mハードルの予選の様子 かっこいい

テストの点で敵わない相手でも、走る速さでは勝てる。これが、理想である「神童」と現実の「中の上」のギャップを受け入れるための、精神衛生上の防衛ラインでした。この防衛ラインを築いたおかげで、自分は些細なプライドを守ることに成功していました。ただし、その些細なプライドを守るためには、ひたすら勉強と陸上を続ける必要がありました。

自分が実は「神童」でなかったことを自覚して傷つく「臆病な自尊心」と、走る速さでは勝てると思って他人を見下す「尊大な羞恥心」。この背反する二つの思いで、勉強と陸上に打ち込んだのです。

成功者の中には、若い時から大きな夢や高い目標があって、学生時代から勉強やスポーツに打ち込んだ。みたいな素敵なサクセスストーリーをお持ちの方がいらっしゃいます。だんだんとひねくれていった自分にとっては、とてもうらやましいストーリーでした。

強いと速いは違う

中学と高校で陸上部のキャプテンをしていた友達の話。

進学校でありながら、彼の陸上にかける思いは熱く、ずっと部員を引っ張って行ってくれました。ひねくれものの私が陸上にかける思いとは違い、彼は常に過去の自分のベストタイムと真摯に戦っていたんだと思います。

その彼が、学級新聞か何かのコラムで「強いと速いは違う」という話を執筆していて、私はその考えにとても共感しつつ、同級生でありながら達観した精神性のあり方に引け目を感じました。

その話とは概ねこのような感じです。「速さ」は数値で定量化できるものです。400m走のベストタイムが50秒であれば、その結果は誰に何を言われても揺らぐことはありません。

一方、陸上競技での「強さ」とは、その「速さ」を産むための土台となるものです。毎日の練習を漫然とこなすのではなく、自分で課題を設定して定期的に成果を確認する。大会を目指してベストな体調を整える。スタートの瞬間に心と体を最高のコンディションに持っていく。それらすべての活動の源が「強さ」であり、結果的に「速さ」を産むということでした。

陸上部の顧問の先生が「あいつは速いな」ではなく「あいつは強いな」と表現していたことを、彼なりに解釈して部員の私たちに教えてくれました。私は顧問の先生が「強い」という表現をしていたことを気にも留めなかったので、これはとても良い学びになりました。

社会に出てからは、なかなか定量的に評価されることはありません。営業職の売り上げとかは定量化しやすいですが、評価って難しいですね。だから私は今でも自分にこう問いかけます。今のお前は「強い」のか?強くあるために何をしているか?と。 皆さんは強く生きていますか?

文化祭で学んだマーケティング

ひねくれものの私でも祭りごとは好きでした。どちらかというと仲間と一緒に盛り上がって楽しむのではなく、祭りを企画して、計画を立てて、自分で運営する方が好きです。その傾向は今でも変わっていないと思います。

当時は都会でプリクラが流行っていて、佐賀の田舎のゲームセンターにもいくつかの筐体が入ってきた頃でした。しかしながら、山の中の寮で暮らす私たちにとって、プリクラは遠い国のおとぎ話のように現実感のないものでした。

文化祭でプリクラっぽいことを運営すると需要があるに違いない。そう思った私は貯金を使い切るほどの勢いで、カシオのデジタルカメラ「QV-10」と、専用のプリンタを買いました。これは、背面に液晶パネルが搭載された世界初のデジタルカメラのようです。昔の日本はエポックメーキングなものを生み出してたんですね。

文化祭では各教室に1つ企画が割り当てられていましたが、私は生徒会長にお願いして、最も人通りの多い渡り廊下で出店させてもらうことにしました。プリクラの単価は1回500円。他に競合がおらず、財布のひもが緩みやすい文化祭なので強気の価格設定でした。

デジカメで写真を撮って、Macに取り込んで、ちょっと加工してその場で出力。今でこそスマホとプリンターがあれば誰でもできることですが、その当時はデジカメの写真がMacのモニタに映るだけで歓声があがり、プリンターからプリクラっぽいシールが印刷されたら大歓声があがりました。

中小企業診断士の今だからこそ分かりますが、この時の私は誰に教わるでもなくマーケットの4Pを完全に実践していたようです。他にはない独自の商品(Product)、強気の価格設定(Price)、その場で撮影と画像加工と印刷(Promotion)、人通りが多い渡り廊下(Place)で、デジカメとプリンター代を大きく超える利益を上げました。

今でも販売の支援をする際は、支援先の事業者の4Pとこの文化祭の4Pと重ね合わせて、どの部分に改善の余地があるかを考えています。失敗は若い時にしておけとよく言われますが、若い時に成功しておくのもいいですね

sinとcosの定義を述べよ

モチベーションの源はひねくれていましたが努力の甲斐あって、高校3年生の時の東大模試はA判定でした。十分に現役合格を狙える範囲です。もしかしたら自分は将来、東大ですごい研究や発見をするかもしれない。そんな淡い希望を打ち砕いたのが、1999年東大入試数学の第1問でした。

(1)一般角θに対してsinθ, cosθの定義を述べよ。

(2)(1)で述べた定義にもとづき、一般角α, βに対して
sin(α + β) = sinα cosβ + cosα sinβ
cos(α + β) = cosα cosβ – sinα sinβ
を証明せよ。

sinとcosの定義を使って加法定理を証明する問題。これはどの教科書にも載っている基礎中の基礎の内容です。あまりにも基礎過ぎて、多くの受験生が見落としてしまっている内容でした。

そして、私も見落としてしまっていた中の一人でした。これは受験生が基礎や定義を疎かにしていることに東大が警鐘をならした良問として語り継がれているようです。

ちなみに、東大の入試数学はたまに、メッセージ性のある問題を出すことで知られています。ゆとり教育世代が「円周率=およそ3」と学んだことに対して、2003年の入試では「円周率が3.05よりも大きいことを証明せよ」という問題を出しています。ゆとり教育に対して挑戦状を投げつけたんですね。詳しく知りたい方は、下記の記事(外部サイト)をご覧ください。

そんな東大の思惑はともかく。受験勉強を頑張ってきたにも関わらず、定義という基礎が全くできていなかった自分に落胆した私は、数学の後の理科と英語がボロボロになって、現役受験は不合格となってしまいました。基礎ができていなかったら、すごい研究や発見なんて夢のまた夢ですね。

何事も基礎が大切。そう心に刻み込んだ私はその後、どんな勉強をするときでも基礎をしっかりと学ぶようにしています。

浪人時代

収集・分析・傾向・対策

その後、福岡の河合塾で浪人させてもらい、基礎から徹底的に学びなおすことにしました。家庭の事情で二浪はさせてもらえない雰囲気だったので、何としても東大に合格しなければ、もう後がない状況です。

山月記の李徴は「数年の後、貧窮に堪えず、妻子の衣食のために」詩人を辞めて再就職しました。李徴にも「あと1年で成果が出なければもう後が無い。」みたいな気持ちはあったんでしょうか? 李徴ほどの博学才穎ではありませんでしたが、当時の自分の心境を重ね合わせると、とても共感できます。

当時は、間違えたすべての問題をスクラップしていました。東大入試に同じ問題が出ることはあり得ないので、このスクラップは自分の間違いを収集して分析し、傾向と対策を得るためのものでした。

たまたま間違えただけのように思えても、間違いを収集して分析すると傾向が見えてくることがあります。例えばあと一息で答えが出るときに限って、平方根の計算にプラスマイナスをつけ忘れる傾向があるとか。このスクラップはとても地味な積み重ねが必要ですが、確実に成果が見込める取り組みです。

中小企業診断士になってからは、「あの社長にはこの言い方が良かったかな」や「あの時こんな支援ができたらなぁ」等、後になって気が付いたことや反省点を収集しています。今後は収集した反省点を分析して対策を立てることで、より成果が見込める支援を行っていきたいと思っています。

夢の中でも勉強

センター試験(現在の共通テスト)の2週間前から東大前期の試験までの約2か月は、本当に勉強しかしていなかったように思います。

朝起きて朝食を食べながら勉強、予備校に行きながら勉強、お昼ごはんは食べながら勉強、予備校から帰りながら勉強、夕飯を食べながら勉強、お風呂でも勉強。終いには夢の中でも勉強していて、日中に行き詰っていたことが夢の中で閃いたりしていました

ノーベル物理学賞受賞者の南部陽一郎博士や湯川秀樹博士は、夢の中で閃くことがあると言っていますが、夢の中でも考えているほど、日中も考えていたんでしょうね。

大学時代

東大合格翌日に原付試験に落ちる

そんなこんなで、1浪して無事に東京大学理科Ⅰ類に合格しました。やれることは全部やっていたので、受験が終わった時には達成感しかありませんでした。もし不合格だったとしても、特に悔しくはなかったと思います。

東京はあっちこっちに電車で移動するたびに数百円かかると聞いていたので、上京したら電車に乗る代わりに原付を買って節約しようと思っていました。そこで、東大に合格した翌日に原付きの試験を受験しに行ったのですが…。結果は不合格!

「俺は何だってできるんだ!」と天狗になっていた自分を、神様が戒めてくれたんだと信じて、今では謙虚な気持ちを忘れることなく生きています。

中小企業診断士になってからは、売上と利益を毎年ゴリゴリ上げている社長には尊敬と敬意を、経営がうまくいっていない社長には同じ目線で前向きな気持ちを持つようにしています。自分の提案が功を奏して売り上げがあがったら、それはその社長の努力の結果であり、自分は売上アップのきっかけに過ぎないと思っています。

もちろん、「私の言う通りにすれば全部大丈夫だ! 私を信じてついてこい!」みたいなコンサルティングを好む経営者が少なからずいることは存じていますが。それは自分の性格にあったやり方ではないと思います。経営者と同じ目線で伴走するのが私のやり方です。

能のサークルに入ったら驚かされた話

予備校時代に、高校時代に演劇部だった友達がいました。

その友達は、教室に入ってくるときや世間話の時に、妙に役者っぽい動きや言葉になる奴で、相当ウザい感じでした。しかし、かつての「神童」が浪人しているという現実に、目を逸らすことも閉じることもできなかった自分にとって、自分ではない何かの役を演じるということは、とても魅力的に思っていました。

そこで、大学に入ったら演劇系のサークルに入ろうと思い、いくつかの演劇サークルの勧誘を受けました。ところが新刊コンパで話を聞いたところ、演劇系のサークルは、練習や準備などでかなりの時間を削られることが分かりました。

奨学金と仕送りでカツカツの生活だった自分には、演劇系のサークルを継続するのは難しいと判断。他に週1くらいで活動する緩めの代案を検討したところ、候補に挙がったのが「東京大学能狂言研究会」。今では「観世会」「宝生会」「狂言研究会」の3サークルに分かれたようですが、この中の「観世会」に入会することにしました。

ちなみに観世流とは、14世紀に観阿弥とその息子の世阿弥によって創始された、能楽の中でも最も大きな流派です。

自分の息子が大学で能のサークルに入ったら、さぞ驚くだろうと思って親に報告したところ、実は母も祖母も能を学んだ経験があるらしく、逆に驚かされてしまいました。大学に入るまで、特に能を観に行ったり話を聞いたりした記憶はありませんが、目に見えないような何かの因果があったのかもしれません。子育てって不思議ですね。

駒場寮で学んだ死ぬこと以外かすり傷

奨学金と仕送りで何とかやりくりしながら、平日は講義を受けて、土曜日は能のサークル、日曜日はアルバイトの生活が数か月続きました。ところが毎月の仕送りの額は単調減少で、近い将来ゼロに収束することが予測されました。

今になって思えば、奨学金を増額するという選択肢もありましたが、当時も今もなるべく借金はしたくない意思が強かったので、生活費を下げる努力をしました。生活費の中で最も支出が大きいのは家賃です。もし家賃が無ければ、週一のアルバイトを続けるだけで毎月の生活費を賄うことができそうです。

そこで選んだのが東京大学駒場寮。今ではもう潰されて図書館が建てられていますが、当時は月額5000円で入居者を募集していたので、入寮を決めました。

東大駒場寮は、私が入学したときには既に東京大学が廃寮を宣言しており、寮生と寮自治会相手に明け渡しの訴訟が行われている頃でした。詳しくはWikipediaをご覧ください。

訴訟中で電気やガスを止められていても、大学に明け渡し訴訟を起こされても、私を含む寮生は将来に対する不安はあまりなかったように思います。若気の至りと言えばそれまでですが、死ぬこと以外かすり傷のような、ある種の熱狂の中にいることで、生きている実感や高揚感があったんだと思います。

うまく言えないですけど。親元を離れて、自分の生活費を自分でどうにかするようになって、でもまだ就職はしていない状況。周りには弁護士になったり起業したり、大手に就職が決まったりする寮生がいて、夜な夜なお酒を飲んだり麻雀したり。

真っ当な社会人でも学生でもない存在が、駒場寮という一つの鍋の中で、夢や希望や理想をぶち込んで作る濃い目のカレー。駒場寮で暮らした数年は、青春というには消化の悪い、高いカロリーな日々でした。

人気が無かったマテリアル工学科

東京大学には「進学振り分け」という制度があります。入学の時は「理科Ⅰ類」みたいな大まかな分野で入って、大学1~2年生の時の成績の順番で、3~4年生で学ぶ学科を選ぶことができる仕組みです。大学に入ってからも手を抜くことができないようになっているので、とても良い制度設計だと思います。

私が入った理科Ⅰ類はいわゆる工学部で、3年生になったら、建築や宇宙、情報、機械などの専門分野に分かれます。今はどうか分かりませんが、当時は建築学科や航空宇宙学科がとても人気でした。

一部の学生は、自分がどうしても入りたい学科に入るために、講義のレポートやテストに「優以外の成績の場合は不可にして下さい」と書いていたそうです。「優」の成績を集めて進学振り分けを有利に進める戦略です。「可」でもいいから単位下さいと思っていた自分と比較したら、すごく前向きですね。

他にも、官僚になろうとする人は、大学の時の成績の平均(GPA)が出世に影響するとかで。国家公務員総合職試験だけでなく、講義の方も一生懸命取り組んでました。

私は身近にいるそんな人たちのことを、学業に専念できるくらいに仕送りがあって羨ましいと思うと同時に、学業に専念していることに対して心から尊敬していたように思います。

そんな中、私が進学振り分け先として選んだのは、マテリアル工学科でした。以前は「冶金学科」と呼ばれていて、金属材料の研究をしていた学科が、セラミクスやバイオテクノロジーの研究も行うようになったことから、「マテリアル工学科」というカッコいいカタカナの名前に変わったそうです。

「冶金学科」の時は、進学振り分けで一番人気が無かった学科も、「マテリアル工学」になってからは下から2番目くらいの人気になったとか(うろ覚え)。

当時の私は、故郷の伊万里焼に関連があるセラミクスについて勉強したいと思っていたような気がします。でも実際のところは、単位に「可」が多かったので進学振り分け先の選択肢が少なく、消去法で選んだような気もします。

大切な人たちとの出会い

駒場寮でもマテリアル工学でも、何でもいいんですが。大切なのはそこでどんな人と出会うかだと思うんですよね。そういった意味では、駒場寮に入ったのも、マテリアル工学科に進んだのも、今では良い選択だったと思っています。

大学時代から話が飛んで恐縮ですが、中小企業診断士になって出会うことができた中小企業診断士や経営者の方々も、私の人生に大きな良い影響を与えてくれています。本当にありがとうございます。願わくば、私も誰かに良い影響を与えられる存在でいたいと思います。

大学院時代

研究室はパワハラ

敢えて教授の名前は伏せておきますが、私が入った研究室は、時代錯誤も甚だしいようなパワハラ気質の雰囲気がありました。でもその教授の研究に対する姿勢や、周囲を巻き込んで大きなことを成す力強さを近くで経験したことは、学問を学ぶ以上に大きな学びがありました。パワハラのパワーは力強さのパワフルなんですよ。

ちょっと自分でも何言ってるか分からなくなってきたんで、具体例でお伝えしますね。

なんや西君、もう帰るんか?

大学院に入ると研究の時間がどんどん増えていきました。しばらくは夕方に週5でアルバイトをしながら大学院に通っていましたが、アルバイトと大学院の両立は無理であると断念し、奨学金の額を増やして、奨学金の中でやりくりするようになりました。

以前は「そろそろアルバイトだから研究を切り上げよう」という感じで、研究を切り上げるタイミングがありました。ところが奨学金の額を増やしてアルバイトを辞めると、このタガが外れてしまいました。朝から晩まで研究室に入り浸る生活になったのです。

研究するために生きているのか、生きているから研究しているのか、よく分からない状態です。実験して、論文を読んで、議論して、大学院の講義に出席して、講義のレポートを書いて、実験して。そんな日常の中、夜23時を過ぎて研究室から帰るときに、その教授にこう言われたのです。

「なんや西君、もう帰るんか? もっと研究していきや!」

教授はもっと研究していた

今ではこんなことを上司から言われたら、パワハラ認定間違いなしでしょう。

ところが実態はちょっと違っていました。私達学生が朝から晩まで研究室に入り浸る生活であった以上に、その教授は朝から朝まで、つまりずーーーっと研究室で研究を続ける生活だったのです。思うに、その教授にとっては、電話やメールが来なくなる深夜が、一番集中して研究ができる時間帯だったのかもしれません。

深夜の研究のゴールデンタイムに帰宅するなんてもったいない! そんな本心からのアドバイスが「もう帰るんか?」だったのでしょう。

当時のポスドク(今では教授)の方に話を聞くと、「1時から打合せしよう!」なんてことが頻繁にあったようです。もちろん昼の1時ではなく夜の1時ですよ!

他にも「今から3時間寝るから朝8時に起こして」みたいな伝説のお願いがありますが、その辺の話はまたの機会に。ちなみに朝8時に起こしに行ったら既に起きてたようです。

天才の努力は手に負えない

映画「アマデウス」では、努力型のサリエリが、天才型のモーツァルトに翻弄される苦悩が描かれています。でもね、現実には努力しまくる天才だって存在するのです。たぶんそれがこの教授。天才の努力は手に負えない。

「東大って研究費がたくさんもらえていいよねー。」なんて、気楽なことを言う他大生がいますが、この教授の前に正座させて説教してやりたいくらいです。

学生の研究の面倒を見ながら、自分でも実験して論文を書いて、他人の論文を査読して、週に数コマの講義もやって、くだらない大学の事務作業もこなして、科学研究費助成金に申請するための研究計画書も書く。学会があればあっちこっちに出張して、情報のインプットとアプトプットを行う。海外から有名な教授を招いては、互いの研究について議論して一緒にお酒も飲む。

1日24時間の時間軸で生きているとは思えない程、毎日たくさんのことを行っていた教授。その教授が言うことであれば、何でも聞いて対応しようと思うのが学生の本懐でしょう。

二進法の犬

前の段落を書いていたら、花村萬月の長編小説「二進法の犬」を思い出しました。ひょんなことから、ヤクザの組長の娘の家庭教師を行うことになった話です。うろ覚えですが、主人公とヤクザの組長の会話でこんなシーンがありました。

「組長の子分の皆さんは、親を殺してこいと命令されたら、本当に殺してきそうですね。」

「そうかもしれませんね。」

「でも組長はそんな命令は絶対にしない。それを子分の皆さんは信じている。そう信じているから命を預けられるんですね。」

この大学の教授もヤクザみたいな迫力があって、圧倒的な仕事量で同僚と学生からの信頼がありました。だからこそ、この教授の信頼に応えようと、朝から晩まで研究を続ける組織が生まれたのだと思います。

令和時代的なパワハラの予防やライフワークバランスも良いですけど、昭和時代的トコトン突き進むのも良いですね。

なんや西君、そんだけか?

ところが成果が出ないこともあるのが研究の辛いところ。我が研究室では研究成果を報告するミーティングが毎週行われていて、約1ヵ月に1回、発表の当番が回ってくるのでした。つらい。

1ヵ月前の発表から何らかの成果が上がっていれば、意気揚々と発表して、「引き続きやりなさい」と言われる。(決して褒められることはありません。)何の成果も上がっていなければ「なんや西君、そんだけか?」と、研究室のメンバーの前でフルボッコで詰められます。

「この実験方法ではダメだったので、次はこうします!」「この仮説に誤りがあったので、こう考えます!」くらい気が利いたことが言えればよかったんですが、その頃の私にはその程度のことを言う勇気がありませんでした。

現在はこの経歴のページやサービス内容のページで、自分のコンサルティングの方針をお伝えしているので、オラオラ系の経営者と接する機会は減りました。もし今後、オラオラ系の経営者から提案内容で詰められるようなことがあったら、この報告会のことを思い出して、気の利いた一言を返そうと思います。

相談し日に名古屋から届いた推薦書

教授が研究顧問を務める名古屋の上場企業への就職相談。

東大に学校推薦枠が来ていないことを知って大激怒。

人事に電話して「今日中に名古屋から書類を持ってこい!」

その日のうちに名古屋から書類が届く。

なんか断りずらくなってその会社に就職。

新卒時代

あの上司は30年後の俺

執筆中 えっ?30年後はあの席に座ってふんぞり返ってるの?という衝撃。

仕事って何だろう

起業時代

執筆中

再就職時代

仕事が終わって試験勉強

また陸上で現実逃避

100km走って100kg挙げる

独立してから

2019年4月 中小企業診断士に登録しました。

現在は、千葉県中小企業診断士協会に所属し、事業承継研究会、製造業研究会、AI生成研究会などで勉強を続けながら、中小企業診断士の活動を行っています。

大きな会社での勤務から、中小企業、起業まで、様々な経験を積んできたところが私の強みであり、多角的な視点で経営の支援を行えるように研鑽を積んでいます。

2020年頃 船橋市勤労市民センターにて
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